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この事件は青年将校の心を大きく動かし、1936(昭和11)年2月26日未明、東京駐屯の歩兵第1、第3連隊を主軸とする陸軍の青年将校らが尊皇と討奸(とうかん=天皇の側近である重臣・統制派軍人・財閥・官僚などを討伐すること)を掲げクーデターを起こした一方で陸軍は反乱軍に対し投降を促すビラをまいたりラジオ放送を流すなど相打ちを避けるように努めた岡田啓介首相は女中部屋に隠れて助かったが、身代わりに秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐が殺害された政府は都心に戒厳令を発表した彼らは首相官邸などを襲撃し、斎藤実内相や高橋是清蔵相などを殺害これは「永田が皇道派弾圧の中心である」と相沢が信じたために起こった事件であったしかしその方法について、軍部の統制を強化することで国力の増強を図る統制派と、天皇親政に戻すことで国力を回復させようと図る皇道派に分かれ、陸軍内部で抗争が続いてきた この事件以降、統制派を中心とした軍部の政治に対する発言力が増し、やがて日中戦争・太平洋戦争へと進んでいくことになる その結果反乱軍の投降が相次ぎ29日にクーデターは鎮圧このことについて相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を日本刀で惨殺する事件が起きる皇道派は完全に敗北し、後に、首謀者となった青年将校は、軍法会議で銃殺刑に処せられた 29日早朝に戒厳司令部より「反乱軍を鎮圧する」との発表があり、一部の地域の住民には避難勧告が出されたので、都心で戦闘が行われるのではないかとの臆測を呼んだ 1935(昭和10)年8月、皇道派であった真崎甚三郎教育総監が更迭されたことで、皇道派は陸軍の主要ポストから締め出された また反乱軍は永田町一帯を封鎖し、警視庁・陸軍省・参謀本部・陸相官邸などを占拠した当時の紙面では「宵・盛り場の灯は消え、劇場や映画館は早仕舞い」とある第一次大戦後の激変する世界情勢の下、陸軍は国力を高めるために、軍と国家の近代化を図ろうとしていたこれを受け27日早朝、九段軍人会館(現在の九段会館)に戒厳司令部を設置いつもはネオンが輝く銀座も、この時は静かな宵闇に包まれた PR |